エンパワメントフィロソファー
ひぐちまりです。
「わかる」ということについて
2つのタイプの人がいます。
ひとつは
「わかる」ことで
世界が閉じていく人、
もうひとつは
「わかる」ことで
世界が広がる人。
「わかる」ことで
世界が閉じていく人は
「答えを知る」ことを目的に学ぶ人。
人によっては、
自分で考えることなく
「正しい」と思われる答えを丸パクリする。
一昔前の
世界には「正しい答え」があって
それを知っている人が優秀な人、という
もはや時代遅れの
ゲームのルールから抜け出せない人達。
そして、相手の話を
自分の知っていることに置き換えて
「それ、知ってます」
「それって、こういうことですよね」と、
「知っていること」で
安堵し、人よりも優位に立っている気になってしまう。
そこから新しい可能性が
生まれるはずはなく、
ぬくぬくとした居心地の良さと引き換えに
世界はどんどん閉じていく。
一方で
「わかる」ことで世界が広がる人は、
何かを「知る」ことで
むしろ、
それまでには気づかなかった
「わかってないこと」に気づいていく。
ある哲学者がこんなことを言っていた。
「勉強とは
かつての自分を失うことである」
「わかっていない自分」に気づくのは
居心地が悪い。
かっこ悪い。
私にとっては哲学の学びが
まさにそれ。
哲学を学ぶ前は
「知る」ことで
安心したくて学んでいたんだなあ、と
今になって思う。
哲学を学びだして
これまでの「当たり前」の基盤がゆらぎ、
学べば学ぶほど、
知らない自分に気づき
情けなくなる。
だからこそ、学び続ける。
自分の「当たり前」を壊すことは
ある意味「自分を壊す」ことにもなる。
新しい可能はそこから生まれる。
そう、どんな制限も
環境や状況にあるのではなく、
自分が生み出しているだけなのだから。
「制限は自分の外にあるのではなく
自分が生み出しているのかもしれない」
そう考えてみてください。
そう考えてみることが
あなたの
新しい可能につながりますように!